紀 成 龍  書 法

繊細大胆


「そろそろ書こうと思うんだけど……何と書いたらいい?」
とイイに尋ねた。
時は平成17年3月15日。東京コンピュータ印刷協同組合が日暮里駅前から西日暮里の駅前に移転したのでお祝いに行こうということで、日立キャピタル I 副社長手配の車に同乗させて貰った時の開口一番。
そもそもは、S社M役員、K部長、鞄立キャピタル I 副社長恒例の三人の新年会に割り込ませてもらってご馳走になった時、K部長から
「飛翔ということば書ける?」
「二字だからいいよ。長いの駄目だけど二字だからかまわない」
「あっ。だったらボクにも何か書いてよ」
「うん。好きな言葉考えておいてね。そうすれば書けるから」
「エーッ。ボクが考えるの?」
「そりゃあそうですよ。Mさんの好きな言葉 俺知らんもん」
「じゃあボクもついでに書いてもらっていいかなぁ?」
「うん。かまわない。一緒に書いちゃう」
てなことから、書くことになったのである。
イイとの会話に戻る。
「せいぜい五字までね。それ以上だと書けないから」 と念押し。
「短いのか。ウーン。難しいな。
そうだ。新人の頃からこころがけていたことがあるんだ。 それにしようか」
「なあに?」
「繊細大胆というの。繊細繊細でも駄目だし、大胆大胆でもダメ。だから 繊細大胆」
「へぇー。いい言葉だねぇ。気に入った。それにしよっ。ちょっと時間かかるけどいい?」
「いいよ。別に急がないから」 「うん。わかった」
A社のS社長から頼まれている書は八文字もあるので難しい。
「積善之家必有餘慶」の半切縦書き。まだできていない。長丁場になりそうだ。 八字もあると一字あたりの大きさが予の筆では大きすぎてうまく書けない。 普段の二分の一に書くというのは字が縮こまってノビノビ書けないことを意味する。当然のことながら四苦八苦する。
悪い事に最後の「慶」の字。予は間違えるのだ。 スケッチの時点で既に間違えていた。
縦書きなのに横書きでスケッチしていたことがそもそもの間違い。
筆を持った途端 あっいけねぇッ。あわてて身体の向きを90度変えて書く。 予はテーブルの上に紙を置いて立って書くので、縦書きか横書きかの区別を、紙の向きを変えるなどというシチ面倒くさい事は一切しない。 横書きのときはテーブルと平行に立つ。 縦書きのときは身体の右側がテーブルに近くなるよう垂直に立つ。 間違っても紙を床の上に広げ、中腰になって書くなどというみっともない書き方を予はしない。昔々田舎の田んぼ道で見てギョッとした女のタチションスタイルみたいな無様な格好で筆を執って、うまく書けるわけがないと思っている。
話が逸れたついでだから書く。
筆の腹で書くというのは子供にとっては自然である。 筆の腹で書くと線がボテッとして生きないので、筆に慣れてくると止める。 筆に慣れると自然に筆が立つようになる。
筆を立てると厳しい線を引く事ができるようになる。線が生きる。これが筆上達の通常のやりかたである。
ところが話はここからである。書に興味を持つ人はよく聞いておいて欲しい。
筆の腹で書くというのは、筆を寝かせて書くということである。
だから筆を寝かせて書くというのは素人の書き方であると勘違いしている。
腹を使うという事は中筆でも大きく書けることを意味する。
子供は線が太く書けるので字をついつい大きく書いてしまうのだ。
大きく書きすぎるとどうなるか。原寸大にしか書けないことを意味する。
眼に飛び込んでくる書は総じて字が大きくない。
それなのに小さな文字でも大きく見えるのはなぜか。
空間を最大限に利用しているからである。間の取り方が実にうまいとわかる。
矛盾するこの二つを掛け合わせた人物が過去にいた。魯山人である。魯山人の刻書を見ると所々を腹で書いていたことが判る。立てて書いたところもある。
そして空間の使い方が実にその うまい。
腹で書きながら厳しい線が引けないかと考えたのが魯山人である。そして魯山人は彼独自の書を完成させた。 その書は一字ずつ一点一画を見るとまことに変哲も無いが、書作品としては強烈な個性を発している。
長くなりそうなので元に戻る。 I 副社長に渡す書は四月三日未明に完成した。
S社長から頼まれていた書を書いた後、そのまま書き上げた。 いつものように、バランスチェックのためデジカメに撮りパソコンで白黒を反転した。


sensai
墨がまだ乾いてない。「積善〜」の横に置いた。そこに一陣の風が……。
アッと言う間も無く、紙が反転して大胆にも「積善〜」の上に乗ってしまった。 あわてて「繊細大胆」を摘み上げる。 「繊細大胆」は無事だった。 だが「積善〜」の方は「餘」「慶」の余白に大胆にも黒々と墨がついてしまった。 ほんとに風ってやつは「餘慶」どころか「余計」な事をしてくれるワイ。 てな椿事により、「積善〜」はまた日を改めて書くことになった。 書の神様がまだ「至らぬぞ」とおっしゃっているのだろうと思う。